そこで気づきました。要はこの人の怒りと称揚の分かれ目の基準は、自分がそうなれたかどうか、ということにあるわけです。厚生労働官僚や環境官僚にはなれただろうが、財務官僚や外務官僚にはなれないだろう、と。そのなれたはずの連中が仕事になるとそれぞれの立場から断れない指示をしてくるこの鬱陶しさ。実際彼の経歴から推測される能力ならば、大学の時にちょっとその気になれば公務員試験に受かったのかもしれません。だからそこで、なれたはずのものは厳しく批判し、なれそうにないものには寛容。でも、「なれたはずのもの」を批判した内容がほとんど「なれそうにないもの」にもあてはまってしまうのはご愛嬌。
僕から見てこんなにきらびやかなエリートでも、そういうことを思っちゃったりするんだなと。
ならば、そこらじゅうにあふれる普通のサラリーマンが、公務員や規制などに守られた企業を叩くのはこれまた道理だなと。なぜならば、18歳の時、あるいは22歳のとき、ちょっとその気になれば、自分たちだってそういう組織に入れたはずなのに、彼らは美味しい目を見て、自分はそうではない、そのことへの怨念。この怨念はとても根深いものだなぁと。